三歩目の物語

エッセイ

早いもので、フィンランド滞在も8ヶ月が経過した。
薄味の食事、極寒の湖、目の飛び出る物価高…
全てに適応しつつあったが、1つだけ、どうしても仲良くなれないものがいた。

それは、バス
フィンランドバス…なかなかの難敵である。

フィンランド人の性格を反映してか、基本無口なバスは、外国人に非常に優しくない仕様となっている。

これまで打ちのめされたこと数知れず。
バス失敗談だけで本1冊かけるくらいには、辛酸を舐めてきた。

思い出すだけで、恨み、ツラみである。

その日、街での用事を終えた僕は、バスターミナルにて、因縁のリターンマッチを控えていた。

ここから家まで数キロ。
バスを使えば20分もかからない。

電光掲示板で乗車場を確認する。

14番乗り場、1番端っこ。

お隣の13番には大行列ができているけれど、14番は不気味なくらいに閑散かんさんとしている。

13番御一行ごいっこうの前を「へいへい失礼します」と横切り、14番乗り口へ。プラスチック製の椅子にどっかりと腰を下ろす。

今回乗るバスは「173Z」
「Z」これが肝心だ。

なぜなら他に「173」「173N」という路線も存在するからである。

173Z、173、173N

「神は細部に宿る」とは、よく言ったもので、彼らいかにも“親族”的な雰囲気を出しておきながら、実は全くの別路線。
僕は過去「173」と「173N」に誤って乗車し、とんでもないところへ連れて行かれたことがある。

ややこしいったらありゃしない。
173」はまだいいとして、「173Z」と「173N
あえてNZのアルファベットを使っているところに、命名者の意地悪さを感じる。

ベンチで寝そべっていたらZはNだし、NはZだ。
あの磁石でさえ、Nの反対はSにしているというのに…少しは磁石を見習って欲しいもんだよ。まったく

ほどなくしてバスは来た。
「173Z」本命バス登場である。

トラップの可能性も考慮し、指差喚呼ゆびさしかんこまでしたが、正真正銘の「173Z」
もちろんベンチで寝そべるような愚行ぐこうはしていない。

今日はひっかからんぞ、へへへ。

1人、不敵な笑みを浮かべながら、1日バス乗車券を見せ、中へ。
バス通路を闊歩かっぽする。

車内には既に数名の乗客。
席は空いている真ん中をチョイス。

僕が座ると同時にバスは動き出す。

“さぁ、家へ帰ろう”
ふっと一息ついて、窓の外を眺めた、その時だった。

僕は見てしまった…

大行列の13番ホームにまったく別の「173Z」が来たのを。

思わず二度見した。いや、二度見どころか五度見くらいした。しかし、何度見たところで、それは、まごうことなく「173Z」であった。

僕が乗っているのは「173Z」
13番ホームに来たのも「173Z」

あれまぁ、摩訶不思議「忍法影分身の術」である。

漂い始める不穏な空気。
影分身、一体どちらが正解か。

こっちの「173Z」を選んだのは僕一人。
対する13番ホームには現地人の群れ。総勢十数名。

オッズの差がすごい。
もしこれで、僕だけが当たっていたら、堂々たる一人勝ち。大穴中の大穴。「ドリームジャンボ3等賞」くらいの価値はある。

結果は、なんとなくわかっていた。
世の中、多数サイドが勝つと相場は決まっている。

最初の十字路、運命の分岐点。

頼む、右折してくれ、そこを右折!右折!右折!
ーバス、無慈悲の左折。

お気づきだろうか?
そう…私は、逆回りのバスを選んでしまったのである。

「173Z」探しに集中するあまり、「どっち方面か」まで気が回らず。ここにきて露呈する詰めの甘さ。

見事に不正解を引き当てた僕は、ハズレ馬券(バスチケット)を上空に投げ捨ててやりたい衝動に駆られる。

それは、鼻の差だった。
事実、正解のバスは目と鼻の先にあった。

それが、1馬身差、3馬身差、7馬身差。
今となってはもう大差。
2台のバスは一度交わり、すれ違い、正反対の方向へと舵を切るのであった。

“さて、どうしたもんか。”

現状把握のため、グーグルマップを開く。
おお、目的地からますます離れていってらぁ。

6km、、、7km、、、8km、、、

10kmを過ぎたあたりで、マップを閉じる。ついでに目も閉じる。

心は恐ろしいほど冷静だった。

というのも、「逆回りを選んでしまうミス」実はこれで5回目
「逆回り王」の称号を持つ僕にとってこんなの日常茶飯事でしかなかった。

間違えたそぶりなど微塵も見せない。
なんなら「なに、ゆっくりしたかったから、あえてこっちを選んだんですよ〜」くらいの雰囲気を出す。
足とかも組んじゃうもんね。
これぞ大人の余裕。

僕は経験から知っていたのだ。
「下手な焦りは、逆に傷口を広げることになる」と。

過去に同じ失態を犯したとき、慌てて降車し、地獄を見たことがある。

降りしきる雪、白銀の地にポツンと1人。
待てども、待てどもバスは来ない。
ここがどこかもわからない。

冷気に体温を奪われ、
奥歯をガタガタ言わせながら、僕は「教訓」を噛み締めるのだった。

「心は熱く、頭は冷静に -バスを間違えても、焦ることなかれ。」

刻み込まれその教えは、此度こたびも僕の心に平静をもたらした。

なんてことはない。別に逆回りでも、乗り続けていればいつか目的地にはつくのだから。

「どうにもならない現実を前にしたときは、流れに身を委ねるに限る」
これが僕の打ち立てた「逆回り理論」である。

考えてみれば、世界は「逆回り理論」を提唱する言葉で溢れている。

もう何回、失敗したのだ「無問題モウマンタイ」🇨🇳
嗚呼まただ。そんなあなたに「ハクナマタタ」🇰🇪
ヤンなっちゃうよ?「ケンチャナヨ」🇰🇷
難来る難来る「なんくるないさ〜」🇯🇵
焦らず腐らず、「ケセラセラ」🇪🇸
劣等?葛藤?「Let it be」🇬🇧

これら言葉の生みの親も、かつては「バス逆回り王」だったのかもしれない。(なーんてね)

見慣れない風景に視線を送りながら、予定外のロングドライブを楽しむ僕。
乗車時こそ、にぎわっていたバスであったが、あれよあれよという間に

「チーン」1人。
「チーン」また1人と姿を消していく。

だんだん、降車ベルの音が、仏壇の「りん」の音に聞こえてきた。

皆、思い思いのタイミングで「りん」を鳴らし、去っていく。車内はセルフ供養するものたちで連なる。


そして、ついに乗客は僕一人を残すのみとなった。

ぼっちになってからというもの、ルームミラー越しに運転手とよく目が合う。

正確には彼、サングラスをかけているから目線は定かでないのだが、「ルームミラー越し」の、さらに「サングラス越し」で目が合っている気がする。

「おい/ お前/ 一体どこで/ 降りるんだ?」
運転手、心の俳句。

対する僕、
「押さないよ /ボタンは死んでも/ 押さないよ。/ここで降りたら、/ 迷子確実。」
見事な返句へんくを決める。

悪いな、運転手。僕と地獄の果てまでランデヴーしよう。

目の前には黄色地に赤のSTOPボタン。
いつ押してもらえるのだろうとソワソワしている。
運転手もソワソワしている。

それでも僕は動じない。
「動かざること山の如し」である。

一人、虚空こくうを見つめ、まだ見ぬ将来に思いを馳せるのであった。

景色がオレンジ色に染まるころ、ついに逆方向の果て、最終停留所に到着。
ここから先は家に向かって、ひた走るのみである。

さぁ、試合も後半戦突入!

気を引き締めなおしていると、
運転手は身体をねじり、今度は直接、僕を凝視する。

彼の視線を正面から受け止め、断固たる決意を持って、一度、深くうなずく。
“降りないよ、ぼくは”

だだっ広いバス。僕と親父をへだつ5mの間に、沈黙が流れる。

しばらくして、親父も深くうなずく。
そして言う。

「終点だ。降りてくれ」

別れは突然に。
まさかの強制下車。

どうして降りねばならぬのか。
これからが勝負だというのに。

望まぬ離別りべつに、思わず込み上げてくるものがある。

しかし、泣いて、駄々をこねるわけにもいくまい。
唇を痛いくらいに噛み締めながら、ひっそりと出口へ向かうのであった。

“アイル・ビー・バック”
親父にテレパシーを送り、後方ドアから降車…

…………したかと思えば、今度はくるりと身をひるがえし、大きな弧を描いたあと、前方ドアから再入場。実に滑らかなUターン。

サングラス片手に、眠そうな目をこすっている親父。
乗客の気配を察知した彼と視線がぶつかる。
数秒ぶり、感動の再会である。

“そんなつぶらな瞳していたんだね。親父。”

彼は目を見開き、口もあんぐり開け、言葉を失っている。生き別れた息子に40年ぶりに出会う、そんな表情だった…

そんな顔するなよ。
そんな顔するなって。

言っただろ、必ずもどってくるって。「アイル・ビー・バック」って。
クシャクシャになった紙チケットを見せ、再乗車。

困惑した親父、平然とした僕。

さほど待たずして、バスは再び動き出す。
今度は正しい方向へ。

脳内では「三百六十五歩のマーチ」が鳴り響いていた。

しあわせは 歩いてこない
だから歩いて ゆくんだね♪
一日一歩 三日で三歩
三歩進んで 二歩さがる

僕は、今まさに三歩目を踏み出そうとしていた。親父と共に。

 1時間の長旅を経て、家から最寄りのターミナルに到達した。そのときの感情は、数年ぶりに帰省した感覚とよく似ている。

変わらぬ街並みと、どこか変わってしまった自分。喜びと哀愁。

遠ざかってゆく「173Z」を見送りながら、僕は1人、感傷に浸る。

きっと人生もこうなんだ。
遠回りして、進歩がないように感じるけれど、動き続けている限り、目的地にはつく。

そう、二歩下がってもいいのだ。三歩進めたのであれば。
後退を肯定するのはいつだって「三歩目の存在」
その一歩を、人は“進歩”と呼ぶのだろう。

Keep moving
動き続けよう。

これは、フィンランドで生きる青年の「三歩目の物語」である。

…と、いい感じで締めようと思う。

え、動いていたのはバスだって?
お前は「動かざること山の如し」だって?

お客さん、人の「進歩しんぽ」や「三歩さんぽ」に口を出すのは「野暮やぼ」ってもんですよ。

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