その日、僕はドイツからイタリア行きの電車に乗っていた。
車内は次第に混んできて、相席が求められるように。
窓側席に座っていた僕の隣にも、ついに来た。
人当たりの良さげな、優しそうなおばさん。
誰かに似ていると思いながら、誰なのか思い出せず、悶々としていたのだが、
ようやく気づいた。彼女、クレアおばさんにそっくりなのだ。

いかにもシチューを作っていそうな、「うちでシチュー食べてあったまっていきなさい」と言ってくれそうな、クレア似のマダムだった。
(便宜上、ここからは「クレアおばさん」と呼ばせていただく)
彼女はドイツ語で話しかけてくる。
「ここ座ってもいいかしら?」
僕は戸惑いながらドイツ語で「はい」と返答。
その後もクレアおばさんからの要求は続く。
「コートをそこにかけてもらえる?」
「眩しいから、ブラインド下げてもらえない?」
ちなみに、僕はドイツ語をほぼ知らない。
だから、彼女のジェスチャーと目線をヒントに、言っていることを推測する。そして、要望に応える。
どうやら、正しい解釈だったようだ。
おばさまはニコニコ笑顔で「ありがとう、ありがとう」と繰り返す。
これにて完結、チャンチャン、、、、
となればよかったのだが、事態はまだ続く。
ミッションを難なくクリアしてしまったことで、
クレアは僕がドイツ語を理解できると勘違いしたのだろう。
その後も、ペラペラとドイツ語で話しかけ続けてくる。
圧がすごい。
ここにきて今さら「ドイツ語わかりません」とカミングアウトするのもダサい気がするし、「なんだこいつ、ドイツ語分からなかったのかよ、ふっ」とか思われたら心外だ。(もっと素直になりたい。)
僕はいかにも「あなたの話わかります」という雰囲気を出しながら、うんうんと頷く。
「人は聞き方が9割」とはよく言ったものだ。
僕のいかにも興味津々「あなたの話もっと聞きたい!」という演技が、彼女の話し手としてのプライドに火をつけた。
しまった、薪をくべすぎた。
彼女は息継ぎをする間も無く、僕に語りかける。まくし立てる。
幸いだったのは、彼女からあまり質問をされなかったこと。
クレアおばさんは一方的に話し続けてくれるので、途中から落語でも見ている気分だった。
稀に反応を求められたときは、
必殺:愛想笑い
を発動し、なんとか乗り切った。
ちなみに誇張なしで、クレアの1人トークショーは1時間近くに渡り続いた。
僕は、彼女の熱量高めの話に煮込まれ続け、煮込まれすぎた野菜のように、すっかりくたくたになってしまった。
やっぱり人の話を聞き続けるのって体力がいる。
話している内容がわからないとなると、余計に疲れる。
話が30分を経過した頃から、僕の中の「遊び心」がひょっこりと顔を出し、バレない程度に「ドイツ語で相槌を打ちたい」と思うようになる。
やられっぱなしは性に合わない。
ちなみに僕のドイツ語ボキャブラリーは
・はい/いいえ (Ja/Nein)
・こんにちは (Guten Tag)
・ありがとう (Danke schön)
・愛してる (Ich liebe dich)
・しょんべん小僧(Wildpinkler)
手札は絶望的にザコい。
初対面で使い損ねた「こんにちは」
伝える機会がないであろう「愛している」をはじめとし、
最弱カード揃いである。
しかも、ジョーカーカード:「しょんべん小僧」に至っては、ドイツ人ですら使う機会があるのか不明だ。
それでも、便利カード「はい」「いいえ」の二刀流を武器に、果敢にクレアの話に割ってはいる。
しばらく話していると、尿意を無視できなくなってきた。
昨晩飲みまくったビールが、利尿作用を遺憾なく発揮しているようだ。
今すぐトイレに行きたいのだが、何せ僕の座席は窓側。
トイレへの道のりはクレアによって塞がれている。
あぁ、トイレまでの道のりは険しい。
(失敗から学ばない男。詳しくは前作参照)
ドイツ語で「トイレへ行きたい」と告げる方法なんか知らないし、詰んだ、、、
クレアおばさんが近くの駅で降車する可能性に賭け、我慢することを決意。
膀胱への暴行を繰り広げる。
耐え難い苦痛の時間、
心の中、大声で叫んでいた。「さぁ道を開けろ! 」
気分はずっと、コムドット。
大人気YouTuberの名言が、(トイレに行きたいので)という枕詞がつくだけでこれほどダサくなってしまうのは新発見だった。
数分経った時、ついに押さえきれない、とんでもない尿意に襲われる。
膀胱で大津波警報が鳴り響いている。
「まずい!まずいぞ〜!!
このままではしょんべん小僧になってしまう!!!」
ん?しょんべん小僧?
その瞬間、パズルのピースがかちりとハマる音がした。
そうか、この時のために、この言葉があったのか。
僕は輝いた目で、クレアの方を向き、ただ一言
「しょんべん小僧 (Wildpinkler)」と呟く。
クレアおばさんは
「しょんべん小僧(になっちゃうから、トイレに行きたいんです。どうかトイレへ行かせてもらえませんか?)」
という隠された文脈を読み取り、さっと道を開けてくれた。
今思うと、クレアおばさん、なかなかの読解力である。家庭科だけでなく国語の評価も高かったに違いない。
僕は小躍りしながらトイレへ向かい、用を済ませる。
座席に戻ると、クレアは、降車の支度を始めていた。
「あぁ、もうお別れか、、、、」
だれるような単調な日々も、終わりが意識された瞬間、急に愛しく感じられることがある。僕はたった数時間の間で、優しいクレアおばさんのことを人として好きになってしまったようだ。
別れ際、クレアは笑顔で僕に言葉をかけてくれた。
意味はわからなかった。
でも、好意を持って何か伝えてくれているのは確かだ。
僕は、その好意に応えたくて、
冗談っぽく、「愛している」とドイツ語で伝えてみた。
おばさんは、「あら、まあ」と少し頬を赤らめて、ホクホク顔で電車を後にした。
出会えてよかったクレアおばさん。
乗り換えを経て、僕は無事にイタリア到着。
今日の夜ご飯は、シチューにしようと思う。
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